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豹の見世物(『見世物絵十三考』から)

川添裕


この原稿は元々、雑誌『月刊百科』(329号、平凡社、1990年2月)に、「見世物絵を楽しむ3」として掲載したものです。のち『見世物絵十三考』(ばれんの会、1997年2月)に、第2章として改訂のうえ収録しました。体裁上・形式上の整理をした上で、internet versionとします。以下、本文。

大判錦絵一枚
絵師:歌川芳豊(一龍斎芳豊画)
板元:恵比寿屋庄七
刊年:万延元年(1860)8月改印

 

 動物の見世物は、近世の初めから連綿と行われてきた見世物の一ジャンルである。ここではそのなかから、万延元年(1860)7月下旬から西両国でおこなわれた豹の見世物を紹介しよう。

 掲載図は、この興行に取材した戯画仕立ての見世物絵で、仮名垣魯文作の落話が記されている。その初めの部分を見ると「西両国の虎の観物/古今稀なる大入りゆゑ」とあり、まず注目すべきことに豹は「虎」と呼ばれている。これは掲載図だけに限らず、この豹を描いた他の見世物絵も同様である。こうした豹と虎の混同の事情について動物学者の高島春雄氏は、当時は分類の知識がなく豹を虎の雌と考えていたと説明している。それはそれで正しいのだが、私はむしろ日本文化史上の虎への愛着(例えば、本画や浮世絵の画題などを想起されたい)が、逆に馴染みの薄い豹を「虎」と呼ばせた理由の一つと推測する。しかし、いずれにせよ「虎豹」一体の認識があったことは確かだろう。

 同時期に出版された河鍋暁斎描く『舶来虎豹幼絵説』(大判錦絵2枚続、恵比寿屋庄七板)は、右図に虎を、左図に豹を描いて、当時なりにこの問題を正面からとらえようとしているが、和漢の諸種文献を盛んに引用して両者の違いを説明する記文(仮名垣魯文による)は要領を得ず、恐らく読者としては結局似たようなものという、ある意味ではきわめてもっともな認識に落ちついたものと思われる。なお、この翌年の文久元年(1861)には実際に虎が舶来し、10月から麹町の福寿院境内で興行している。

 さて、話は戻って掲載図の落話の内容は、満員でなかにはいれない見物人が小屋にかかった絵看板を眺めながら、看板は絵空事で、実物は絵の三割ぐらいの大きさだろうと言うと、もう一人が、いやそんなことはない、看板に「三ツわり」(いつわり)なしと答えて落ちるものである。同じ両国で、嘉永4年(1851)には国産の大猫を「虎」といつわった見世物もあったが、今度の豹はまさしく舶来の猛獣で、だからそれを活写した図は、実物となって勢いよく看板から飛出てくるというのが全体の趣向となっている。

 よく見ると図の芳桐紋の人物(上)が絵師の芳豊、文の紋(右)が魯文の設定と思われ、あの手この手を使いながら、見世物の諸要素と、上手の絵が飛出すという伝承(例えば雪舟の鼠や、岩佐又兵衛の伝説、上田秋成の夢応の鯉魚等)を結びつけて観客を誘った、重層的趣向と言えよう。


 芳豊がこの興行に関し、絵看板をそっくりまねた形式の浮世絵(上図)を描いている事実を考え併せると、彼が実際に興行の絵看板そのものを描いていて、それを誇らしげに示しているのではないかといった推測もなし得るところである。元来、芳豊は同時期の動物見世物を描いた作例が圧倒的に多く(万延元年の豹、文久3年の象、文久3年の駱駝)、当時この分野を得意とする絵師として、自他ともに認める存在であったことは間違いない。そして、魯文が記す見世物動物についての縁起書きというのも、これまたきわめて多く見られるものであり、言ってみればはじめに掲載した図は、ゴールデンコンビの楽屋落ち的図と言うこともできよう。このようにある興行について、特定の絵師や記文作者が、版元との関わりのなかで集中的に仕事をするといった「連携」は、しばしば見られるものであり注目すべきことと思う。

 さて、ここでもう一図、同じ芳豊が描く報条を見ていただこう(下図)。
 竹枠に囲まれた豹は、やはりここでも「虎」としての扱いを受けているわけだが、興味深いのはこれまた仮名垣魯文が記す文章で、この「虎」を一目見れば「悪病に犯さるる愁なく、小児ハ疱瘡疹を軽くし」とある。つまり「虎」は霊験あらたかな動物で、それを見るとまさに「眼福」が得られるというわけである。このように舶来の動物を有り難い霊獣として見せることは、動物見世物の通例であった。象、駱駝、山嵐、駝鳥などがやはり<西方の霊獣>として興行され、それらを描いた錦絵や報条には、一様に珍しい動物を見ることで得られる「ご利益」(悪病を払う、疱瘡除けになる、招福財宝、七難を去り七福を招く等々)が記されている。


 動物を見ることは今日のパンダにいたるまで、われわれ人間と動物の、生あるものとしての連続性に支えられた、眼を通しての交歓とでも呼べそうな不思議な喜びを与えてくれるが、江戸の人々にとっては、一種、開帳の神仏を拝むのに似た御利益つきの眼の喜びであった。こうした「見る」ことで魔を払うという民俗的な信仰は歌舞伎の「にらむ」芸にも通じるものであり、そこには江戸の人々の民俗や心性をさぐる重要な手がかりが示されている。

 

  

付記
 最後に記した動物見世物にまつわる民俗的な信仰に関しては、1996年におこなった二度の公演(3月・第43回版画研究会講演、および9月・第120回河鍋暁斎研究会講演)で筆者なりにつっこんでふれてみた。この問題についてはさらに別稿を用意したいが、駱駝の見世物に力点を置き話をした版画研究会講演の内容は、『版画藝術』92号(阿部出版、1996年6月)に「版画研究最前線2」として要約が掲載されるとともに、『版画研究会会報』(版画研究会、1996年10月)にも英文を含む報告がされている。興味のある方はご参照いただきたい。

 


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